異世界の宿 ‐雨と時計と迷宮の塔‐ 【注意事項】  この作品は、催眠要素を含む音声作品です。  眠くなる要素が含まれておりますので、移動中などは避けてお聞きください。  万が一、怪我や事故に遭われたとしても、当方では責任を負いかねます。  この音声を聴く際は、なるべく部屋を暗くし、ベッドやソファーなど、リラックス出来る状態でお聞きください。  また、そのまま寝てしまっても構わないような環境だと、よりこの音声を楽しむことが出来ると思います。  それでは、作品を聞き始める前に何度か深呼吸をしましょう。  息をゆっくりと吸い込んで、吸い込んだ時よりも長く吐き出してみてください。  繰り返す度に肩の力が抜け、次第に全身の力も抜けていきます。  眠りにつく前の状態を意識して、意識が深く、ふかーく、眠りに落ちていく状態に近づけていってください。  肩の力が抜ける。すぅーっと、抜けていく。  瞼が重いと感じるのならば、目を閉じても構いません。  目を閉じると、さらに意識がすぅーっと沈み込んでいく感じがするかもしれません。  最後にもう一度だけ、深呼吸をしましょう。  その後は、自由な呼吸に戻して貰っても構いません。  深く息を吸って、全身に新鮮な空気が巡っていくことを意識しながら、吸い込んだ時よりも長く吐き出してください。 【導入】 ○ 森の中(暗闇) ナレ  貴方は今、森の中を闇雲に走っている。  暗い、暗い、闇の森。  逃げなければ、そんな意識だけが貴方を突き動かす。  見知らぬ森、草木の形も、貴方が知っているモノと形状が違う。  誰かの声が聞こえた気がした。  その声に誘われるようにして、気づくと貴方はこの森の中に立っていた。  目が慣れ始めると、森の中を視認出来るようになってくる。  やはり、違う。  まるで、ファンタジー映画でも見ているような独特な景色が広がっていた。  怖い、恐ろしい、逃げなければ。  逃げなければ、捕まってしまう。  声の主に、捕まってしまう。  でも、どこまで逃げればいいのだろう。  どこに、逃げればいいのだろう。  空を見上げると、木々の間から濃い紫色の空が見えた。  月のようなモノが二つあり、それを見た貴方は恐怖で体が震えてしまう。  ここは、自分が暮らしていた世界ではないのかもしれない。  そんな底知れぬ不安から、貴方の足が止まる。  逃げられない。  逃げる場所が、どこにもない。  そう思った貴方の視線の先に、薄くぼんやりとした光が見えた。  その光を見ていると、自然と力が湧き、足が動かせるようになる。  再び走り出した貴方は、永遠に続いているような森を抜ける。  バッと、眩いほどの光に目が眩む。  視線の先に、小さな建物が見えた。  光はそこから差していて、どこか温かさを感じる。  貴方は藁にも縋る思いで、その建物を目指して走り出した。 ○ 異世界の宿・玄関(夜)    息を切らせながら、主人公が宿にやって来る。    それにサツキは気づかず、客だと勘違いし冗談交じりに登場する。 サツキ  はーい、どちらさまですかー? って、異世界語で話したところで――。  えぇっ!? 日本人ッ!?  だ、大丈夫なの?! 怪我、は、大した事ないみたいだけど。  でも、どうして日本人が? あっ、日本人、だよね? 瞳の色も黒いし、顔立ちも――いやいや、この際どの国の人間なのかはどうでもよくて。  え、えっと、言葉は通じてる?  そ、そう、良かったぁ……っ。  何があったのかは分からないけど、玄関で立ち話も何だし、家にあがらない?  外は真っ暗だし、怪我の具合も見なきゃだし、ああ、もう! 色々と聞きたいことがあり過ぎる!  とにかくこっちに来て! ひとまず、怪我の具合を確かめるから。  痛いところはある? 見た目擦り傷程度だけど、顔色が凄く悪いよ?  とりあえず、ここで待ってて。薬、持ってくるから。    サツキが薬箱を持って戻って来る。  腕を見るから、ごめんね。ちょっと触るよ?  ――うん、手の甲がちょっとだけ切れてるね。他は、ええと、大丈夫そう、だね。汚れている割に怪我はしていないみたい。  大丈夫だと思うけど、念の為に薬を塗っておこうね。  ちょっと沁みるかもしれないけど、我慢して。  まずは右手から。また、ちょっと触るよ?  キミの手、結構柔らかいね。それにとっても温かい。  私の手は、冷たくない? 大丈夫?  それじゃ、薬を塗っていくからね。  沁みるかもしれないから、意識を右手に向けていて。  この塗り薬はね、近くの町で有名な呪術師が調合した薬なの。  この程度の傷くらいなら、数時間で治っちゃうんだから。  ああ、ちょっと赤くなってるね。沁みるかな、大丈夫?  ぬーりぬり、円を描くように塗ると、ちょっとくすぐったいかな。  ぬーりぬり、薬が馴染んできてるよ。この薬の効果で、ちょっとだけ手が温かく感じるかも。  でも、それは薬がちゃんと効いてる証拠でもあるから。  さぁ、次は左手。左手に薬を塗っていくからね。  今度は左手に意識を向けて。  キミは、日本人だよね?  ああ、ごめんね。さっきから質問ばかりで。  えっと、じゃあ、キミのことを聞く前に私の自己紹介をしようかな。  でも、その前にこの薬を塗り終えてから。  どうかな? 左手もあったかくなったかな?  うん、これでもう大丈夫。  痛みはすぐに消えていくと思うから、安心して、ふふ。  えっ? あ! 自己紹介、だったよね? 忘れてたわけじゃないからね?  私の名前は、エウシュクル=サーラツィキエラ。  えっ? 長くて覚えられない? もう、失礼しちゃうな。  でも、そっか。日本っぽい名前じゃないし、イントネーション的にも違和感があるのかもしれないね。  それなら――、エウ、サーラ、うーん、私の名前から日本人っぽい感じだと、ええと、さ、サラ、サツ、キ? サツキ、うん、サツキだと日本っぽいかも。サツキ、うん、これから私のことはサツキって呼んでよ。  ――って、いきなり脱線しちゃったね。  キミも異変を感じてると思うけど、ここはキミが住んでいた世界とは別の世界なの。  異世界って言えば分かりやすいかな。  私もあまり詳しくないけど、地球とは別の惑星。ああ、でも、私はキミの世界でいう宇宙があるかは分からないんだけど。  誰も、この空の先を見に行ったことが無いから。  ああ、ごめんね。また、話が逸れちゃったね。気になることがあると、意識がそっちに引っ張られちゃうんだよね、私。えへへ。  話を戻すけど、キミはどうしてこっちの世界に来たのかな? 観光って感じでもないし。  気づいたらここに来ていた=H そう……っ。  つまり、キミの意思でこの世界に来たわけじゃないのね?  それならきっと、キミは呪術師に呼ばれてしまったんだと思う。  でも、それにしてはさっきの感触――それに、呪術師が近くに居る感じもしないし。  ねぇ、キミがこの世界に来てから誰かに会った?  私が初めて? そう――。  もしかしたら、キミは間違えてこっちに来ちゃったのかも。  さっきキミの手を触った時、軽すぎるかなって思ったの。  空気を掴むって程ではないけど、布を持っているくらいにしか重さを感じなかったから。  これは私の推測なんだけど、キミの体はまだ元の世界にあって、今のキミは限りなく精神体のようなモノなんじゃないかと思う。  ああ、でも、確証がある訳じゃないの。  でもね? もしも、私の考えが正しいなら、キミを元の世界に戻してあげられるかもしれない。  キミが元の世界に帰りたいと思うなら手伝ってあげるけど、どうする?  うん、そう、帰りたいのね。  それじゃ、まずはキミの体の状態を確認しましょう。  仰向けで横になってもらえるかな? ゴロンって。  うん、素直でよろしい。それで両足を伸ばして、両手も体から落として真っ直ぐにしてみて。  力を抜いて、ゆったりとした呼吸をしてみて。  うん、そんな感じ。ちゃんと出来て偉いぞー?  えっ? あんまり子ども扱いをしないで欲しい?  えぇー、どうしようかなー?  さっきも言ったけど、ここは異世界なの。  キミが知っている原則も、法則も違っている世界。  これでも、私はキミの何倍も年上なんだから。  キミのお祖父ちゃんやお祖母ちゃんよりも、ずっと長く生きているの。  時間の流れだって、キミの世界とは違う。  興味あるの? でも、今は体の状態を診ることが先決。  ほら、今から右肩に触るから意識してみて。  私がキミの右肩に触れている感じは分かるかな? 分からない?  分かっても分からなくても、どっちでも大丈夫だから、私の言葉通りに意識を集中させてみて。  私は今、両手でキミの右肩に触れている。  そのままゆっくりと落としていって、指先まで落としていくからね。  すぅーっと落として、まずは二の腕まで。  あら、ちょっと筋肉が足りていないんじゃない?  プニプニしてて、ちょっと癖になる揉み心地かも。  ふふ、このままさらに下のほうに落としていくから。  二の腕から肘、手首の方まで。  意識を集中させていると、じんわり右肩から指先まで温かさを感じるかもしれない。  もしかしたら、少し重くなったような感じがするかもしれないね。  私の指の感触を意識して、手首から指先まですぅーっと触れる。  うん、やっぱり感触が普通とは違うみたい。  それじゃ、次は左肩から。  右肩と同じように、左肩から指先まで落としていくからね。  私の言葉通りに意識して。  左肩から二の腕まで、すぅーっと落とす。  肘、手首、指先まで、私に触れられたところがあったかくなる感じがするかな?  重くなった感じは、する?  今はまだ、どちらも感じなくても大丈夫。  これから先、自然と感じられるようになると思うから。  一度、深呼吸をしてみましょうか。  ゆっくりと長い呼吸を意識して、深呼吸をしてみて。  まだ両足の確認が残っているけど、ちょっとだけお話ししよっか。  今私はね、キミの体を確認すると同時に、キミにリラックスして貰おうって思っていたの。  いきなり異世界に飛ばされて、きっとキミは凄く怖い思いをしたんだと思う。  だって、キミの体は強張っていて、震えていたから。  だから、自然とリラックスして貰えたらいいなぁって思ったの。  でも、キミは今、ちょっとだけ不安に思ったよね?  腕に意識を向けて、とか、深呼吸をして、なんて、見知らぬ相手に言われたら警戒しちゃうよね。  キミは右も左も分からない異世界で、信頼を置ける相手も居ないんだから。  今すぐ私のことを信頼して欲しいなんて言わないし、言えないけど、私はキミに頼って欲しいって思っているよ。  真面目にこんなことを言うと、ちょっと恥ずかしいね。  それじゃ、最後に両足を確認していくね。  太腿からふくらはぎ、足先まで。  今度は意識しても、しなくてもいいから。  出来れば、私の話を聞いていて欲しいかな。  太腿から、ゆっくりと足先まで落としていくよ。  んっ、しょっ。  私は、ここで宿をやっているの。  宿と言っても、泊まれる人数はせいぜい二、三人なんだけどね。  あっ、もう楽な呼吸に戻してね。  私は少し前まで冒険者をしていたの。  この世界のすべてを知りたくて、この目で見て見たくてね。  その途中で、私は異世界に渡る方法を知ったの。  キミの世界だけじゃなくて、本当にいろんな世界を見てきた。  キミの世界にしても、日本以外にもいろんな国を見てきたよ。  平和な国、そうじゃない国、キミたちの笑っている顔、泣いている顔、とても小さな世界なのに、ありとあらゆるものが凝縮された世界だった。  言語もとっても多種多彩で、特に日本語は覚えるのに時間が掛かったかな。  よいしょっと、ふくらはぎがちょっと張ってるね。  森の中を走ったから、筋肉が強張ってるのかもしれないね。  でも、私の話を聞いて、少しだけ緊張が解けている感じがする。  表情がね、さっきよりも穏やかになってる。  嬉しいな。  後はこのまま、足首、足先まですぅーって落としていく。  はい、これでおしまい。  それで、と。  一つ、分かったことがあります。  大丈夫。キミは元の世界に帰れるよ。  予想通り、今のキミは限りなく精神体に近い存在みたい。  肉体とは違って、精神は凄く不安定だから、強い存在感を持つ肉体に帰ろうとするの。  だけど、戻ろうにもキミは、この見知らぬ世界に不安を覚えてる。  不安があると、肉体に帰ろうって意識の集中が遮られてしまうの。  ちょっと難しいかな?  今のキミは、元の世界に帰りたい―≠チて意識と、この世界が怖いよー≠チて不安が混ざり合っていて、帰りたいっていう意識を邪魔しちゃっているの。  だから、この世界に対する恐怖心や不安が無くなれば、きっとキミは元の肉体に戻ることが出来ると思う。  すぐには難しいかもしれないけど、大丈夫、安心して。  私がキミを元の世界に帰してあげるから。  それにほら、私冒険者だったから、いろんな話をしてあげられるし、こうして出会ったのも何かの縁だと思うから。  だから、ちょっとは私に頼ってくれてもいいんだよ?  なんて、図々しかったかな?  うーん、何だろ。まだ、表情が硬い気がする。  もしかして、どうして私がキミに親切にするのかが気になってる?  ははーん、キミって意外と疑り深いんだ?  こんなに優しそうなお姉さんを見て、不信感を募らせちゃってるんだ?  あっ、それとも私が美人だから? キミの国だと美人は性格が悪いって聞いたことあるし。  でも、この顔ばっかりは変えられないし?  ん〜? 態度がさっきまでと違うって?  ふふふ、さっきまでの私はキミの国でいう猫を被った¥態だったのです!2  宿って客商売でしょう?  営業スマイルって奴? あれ、違う?  ニホンゴ、ムズカシイネ。  ふふ、なんて。  私が心を開いていないのに、キミだけ心を開いてもらおうなんて、それこそ図々しいかなって思ったの。  この世界はいいところよ。  それこそ、世界の果てが存在してもおかしくないくらい、雄大な世界なんだから!  ああ、でも、キミの世界みたいにいがみ合ってる国もあるんだけどね。  これから、キミには私が体験した冒険譚を話してあげる。  私の話を聞いたら、キミは絶対にこの世界が好きになるんだから。  覚悟しなさいよ?  なんて、ね。  ふふ、ちょっとはいい顔になって来たじゃない。 【儀式】  それじゃ、冒険のお話をする前に確認するからね。  キミは今、この世界に対する恐怖心や不安から、元の世界に戻れない状態になっちゃっている。  だから、今から私がこの世界の話をして、恐怖心や不安を取り除いていくの。  取り除いていくっていうのは、心がすっと軽くなったり、楽しい気持ちになったり、安らいだり、そういう嬉しい状態になっていくこと。  キミがこの世界のことを知って嬉しい状態になると、自然と体がリラックスしていく。  全身がリラックスした嬉しい状態になった時、キミは元の世界に戻ることが出来るの。  眠るように、心地よくね。  だから、今は私の話に耳を傾けて。  素直な気持ちで、私の声が体に浸透していくように。  そうしたらきっと、最後には幸せな気持ちで元の世界に帰ることが出来るから。  それじゃ、最初のお話を始めよっか。 【小話a・呪術師と緑蔓塔の巨大迷路】  えーと、それじゃどんな話がいいかな?  あっ、そうだ。私がキミの世界に行き来出来るようになった話をしようかな。  さてさて、どこから話をしようかしら。  そうね、まずは性格の捻じ曲がった呪術師に出会うところから――。  異世界に行く薬が出来たって噂を聞いて、私は薬を作った呪術師に会いに行ったの。  その呪術師は近くの村からずっと離れた山奥で生活して、異世界の生物を研究している人だった。  呪術師っていうのは、キミの世界でいう学者であったり、医者だったり、魔女って言われているような存在ね。  私が出会ったその呪術師は、まさにキミの世界で描かれている魔女のような人。  私なんかよりも何十倍も長生きしている呪術師で、ちょっとだけ腰の曲がったお婆ちゃんだったわ。  今でもたまに会いに行くんだけど、会う度に同じことを言うの。 また来たのかい。それとも、あんたとは初めてかい?≠チて。  出会った時も同じことを言われたから、きっとあの呪術師は、異世界生物の顔を覚えられても、この世界の生物は全部同じに見えるのね。  きっと、キミなら一発で覚えてくれるんじゃないかしら。  そんな呪術師に異世界に行く薬のことを尋ねたら、薬はある。でも、今はない≠チて。  呪術師って、この世界だとかなり頭のいい人たちで、同じくらいに変わり者ばかりだから、一般人とは何かが違うのよ。  キミの世界でも、学者さんのイメージってそんな感じでしょ? えっ、違う?  でもまぁ、私は異世界に行ってみたかったから、何日も食い下がったわけ。  それで、薬の作り方はある。でも、材料が足りない≠チてことだと分かったの。  それならそうだと最初に言ってくれればいいのにね? キミもそう思うでしょ?  その足りない材料っていうのがまた珍しいモノで、碧蔓塔(へきかずらのとう)の屋上にしか咲かない花が必要だっていうの。  碧蔓塔は別名、天空の塔って呼ばれていて、遥か彼方、雲の向こうまでそびえ立つ、高い、たかーい塔なの。  正直、うわっ、めんどくせ≠チて思ったわ。  でも、当時の私はその面倒臭さよりも、異世界への興味のほうが勝っていた。  それでもまぁ、実際に視認出来ないほど高い塔を見た時は後悔したけどね。  塔の中は薄暗くて、点々と淡く揺らいている小さな火が続いているだけ。  時より流れる風がその火を揺らして、私の影も揺らすの。  ゆらゆら、ゆらゆらって。  その点々としている火を見つめながら歩いていると、何だか意識がぼぉーっとしていく感じがして。  ゆらゆら、ゆらゆらと意識まで揺れているみたいだった。  それに塔の中は迷路みたいに複雑で、右に曲がって、左に曲がって、気づいたら元居た場所に戻っていたりして、文字通りの迷宮。  外の景色を見ることも出来ないから、薄暗い細い通路を歩いていると、段々と時間までが曖昧になっていくの。  それでも、不思議と迷っている気はしなかったかな。  真っ直ぐ、まーすぐ、右に、左に揺れる火の光に導かれるみたいに、私は塔を登っていった。  それからしばらくして、私は視線の先に光があることに気付いたの。  近づいていくと、段々とその光は大きくなっていって、目を開けているもの難しいくらい。  光の先に辿り着いた場所は、少し広い部屋だった。  視線の先には手すりしかない窓と古びたテーブルがあって、テーブルの上には四角いティーセットを入れる箱。  誘われるように光の差す窓に近づくと、入口の上から石壁が突然下りてきて通路を塞いでしまったの。  早い話は罠で、私は閉じ込められてしまったわけ。  でも、私は冒険者だから、そんなことくらいじゃ動揺したりしなかった。  せいぜい手が真っ赤になるくらい壁を叩いて、窓から飛び降りて死なないかを本気で考えたくらい。  でも、いつの間に五十階くらい昇っていたから、言わなくても分かるよね?  私、冒険者だけど命知らずじゃないから。  仕方がなく、私は置いてあったティーセットで優雅にお茶することにしたの。  椅子がなかったから空気椅子で。  ……冗談よ?  でも、お茶をしたのは本当。  お茶をしている時、ふと天井を見上げると妙なへこみを見つけたの。  四角くて、そこのレンガだけが落ちているような。  でも、床に瓦礫はない。  不思議だなー、あーお茶美味しいなーって、しばらく天井を見上げていたんだけど。  ふと、思ったのよ。  この天井のへこみとティーセットの箱、大きさが同じくらいじゃないかって。  勘が鋭い私は、すぐにこれが罠を解除する方法だと気づいたわ。  当然、暇だからはめ込んでみようなんて考えなかったし。  ……本当よ?  箱をはめた途端、ゴゴゴッて音がして、来た場所とは別の通路が現れたの。  予想外――ん、うん!、予想通りの展開に私は駆けだした。  別にすぐに閉まりそうで怖かったとか、降って湧いた出来事に慌てたわけじゃないのよ?  その時はお腹が空いていて、早く塔を下りたかっただけなんだから。  その通路は細い一本道で、先に深い紫色の光が淡く差してた。  私は焦っていたことも忘れて、その光に目を奪われてしまったの。  その光は、不思議と人を惹きつける力を持っていて、私の意思じゃないみたいに足が動いて。  ゆっくり、ゆっくりと、ふわふわした足取りで、その光に近づいて行って。  気づいた時には、遥か天空まで登る螺旋階段の中に居たの。  どうしてか分からないけど、その螺旋階段は遥か先の空まで見えていて、他に明かりもないのに暗さを感じなかった。  そこは暗く淡い紫色の夜空みたいな空間で、雄大で、まるで星の海のように壁が輝いていたの。  うん、今思い出してもアレは火の光なんかじゃなかったと思う。  そんな場所をゆっくりとのぼっていく。  螺旋階段をのぼっていくの。  螺旋階段から見える景色はグルグルと回転して、満点の星空が姿を変える。  グルグル、グルグルって目が回ってしまいそう。  自然と気持ちがふわふわとして、階段をのぼっているのに歩いている感覚がない。  そんな不思議な、とても不可思議な時間だった。  想像してみて。  見上げた先には満天の星空。  青色だったり、赤色だったり、白く光っていたり、いろんな色で溢れた世界を歩いている。  それはまるで夢のようだと思わない?  それは、とても幸福な時間だとは思わない?  私はいろんな世界を、風景を見てきたけど、ただそこに居るだけで胸がすっと澄むような気持ちになったのは初めてだった。  感じてみて。  見上げた先には満天の星空が広がっている。  キミは極彩色の世界で、ふわふわと浮いているような足取りで階段をのぼっていく。  まさに、夢心地。  夢のような景色の中で、夢みたいに幸せで満たされた気持ちになる。  ああ、キミにも見せてあげたいなぁ。  それから、気づくといつの間に最上階まで辿り着いていて、ふぅって強い風が吹いて意識が戻ったの。  あんな体験をしたのは、後にも先にもあの時だけ。  それから約束通り、屋上に咲いていた花を摘んで、私は呪術師が待っている家にまで戻ったの。  でも、戻ってきた私は衝撃の事実を聞かされたわ。  私が花を渡すと、呪術師は小瓶に入った丸薬を私に渡して、 ご苦労様。これが約束の薬だよ  って、言ったの!  信じられる?  私が苦労して、苦労して! 採ってきた花が、実は全然違う用途で使うものだったのよ?  まさか、こんな形で騙されるとは思っていなかったから、怒るより先に気が抜けちゃって。  結局最後は笑っちゃってた。  どうだった? このお話。  楽しんで貰えたなら嬉しいけど。  その薬のお陰で、私はキミの世界を行き来することが出来るようになったって訳。  ああでも、キミがこの薬を飲むのはダメだよ?  この薬はこっちの世界の住人が別の世界に行く為の薬だから、キミが飲んでしまうと、キミもこの世界の住人になっちゃうかもしれないから。 【小話b・時計の街】  さてさて、どうかな?   少しはこの世界のことを好きになれたかな?  力が抜けて、リラックスした状態に近づけているといいんだけど。  次の話は時計のお話。  時計というよりは、時間のお話かな?  キミの世界と同じように存在する、この世界の時間のお話。  日が昇り、沈んで、一日が始まり、終わって、また始まるお話だよ。  そんなことは普通じゃないかって? ふふ、ホントにそうかな?  私は時の番人ウサギの依頼で、この世界の中心って言われている街を訪れていたの。  その街は懐中時計みたいに丸い形をしていて、その中心に数十メートルもある世界時計があるの。  街中にはいろいろな時計が飾られていて、カチコチ、カチコチって話し声みたいに響いているの。  朝も、昼も、夜もずっと鳴り続けていて、それは時計の街と呼ぶに相応しい場所だったわ。  今も、この世界の基準となる時間を世界時計が刻み続けている。  でも、世界時計には凄い秘密があったの。  それを今から話してあげる。  私が依頼を受けた時の番人ウサギは、キミの世界のウサギと違って、二足歩行だし喋ることも出来る。  いつもタキシードを着ていて、片眼鏡にステッキを持っている変なウサギでね、キミにも分かりやすく説明するなら、絵本とか、おとぎ話に登場するウサギ、かな?  その時の番人ウサギは、代々世界時計の管理を任されていたの。  そんな相手が、ただの冒険者である私にどんな依頼をしてきたと思う?  近々世界時計が狂い始めるから、直すのを手伝って欲しいって。  そう、これは狂い始める世界時計を元に戻すお話。  摩訶不思議で、ちょっとだけ怖い幻想的な物語。  その時計の街は、すべてが時間に管理されている街なの。  起きる時間、寝る時間、働く時間や学校に行く時間、すべてが世界時計によって決められている街。  それは私たち、外の人間も一緒で、厳しい入国審査があるの。  滞在の目的、起きる時間、寝る時間、観光なら観光をする時間、仕事なら仕事をする時間をすべて街に提出しなければならないの。  そして、それを守れなければ、街の自警団に街から追い出されてしまう。  でもね、街の住人は誰も知らないの。  もうすぐ、狂うはずのない世界時計が狂ってしまうことを。  知っているのは私と、世界時計を管理してきた、時の番人ウサギだけ。  私は観光という名目で、時の番人ウサギと一緒に、狂う予定の世界時計を元に戻す計画を立てていった。  時間によって行動が制限されていたけど、十分に計画を練ることは出来た。  というのは、時の番人ウサギも、いつ世界時計が狂うのかが分からなかったから。  その時に分かっていたのは、近々世界時計の時間がズレるということ。  狂うって説明したけど、どう狂うかはすでに分かっていたの。  世界時計の狂い方はとても単純、キミの世界の時間と照らし合わせて説明すると、午前零時になった瞬間、時間が一分間ズレてしまう。  次の日には二分、その次は四分と、倍数分だけ時間がズレてしまうの。  そして、それを時の番人ウサギ以外には認識することが出来ない。  それなら、ズレた時間を戻せばいいって思うでしょ?  でも、世界時計は狂うはずのない時計だから。  時間がズレてしまう事実を隠さなければいけなかったの。  それにほら、世界時計には凄い秘密があるって言ったでしょう?  でも、この時の私は、いいえ、時の番人ウサギすらも知らないことがあった。  世界時計のズレを感じ取れるのは時の番人ウサギだけだから、私は連絡があるまでの間に準備を整えていったの。  入国審査で提出したこと以外の外出を認めていないから、まずは観光をしているように装いながら、宿から世界時計まで移動できる人気のないルートを探したの。  この街の住人は、それこそ一分一秒の誤差なく生活しているから、事前に調査しても問題はなかったわ。  次の問題は、どうやって世界時計に侵入すればいいのか。  このことに関しては、私の依頼主が管理人だから問題なし。  時間になれば、指定した裏口の鍵を開けてくれることになっていたから。  だけど、問題はこの先。  世界時計が狂う時、私は指定された場所に居なければならなかったし、さらにはある道具を手に入れる必要もあったの。  その道具というのは、世界時計を動かす為に必要なゼンマイ。  一度巻けば数百年間動き続けるから、普段ゼンマイは自警団の監視のもとで一般公開されている。  世界時計が止まった直後に私は、そのゼンマイを動力部に差し込んで回さなくちゃいけない。  そう、指定された場所っていうのは動力部のことね。  動力部は世界時計の文字板の中心より少し下にあって、私は数十メートルある世界時計の外に出てゼンマイを巻かなきゃならなかったの。  どう? なかなか緊張感のある依頼でしょう?  本当、今になって思えばどうして断らなかったんだろ……っ。  それにね、この計画はとても万全とは呼べない内容だったの。  まず、関係者以外世界時計に出入りすることが出来なかったこと。  私は内部情報を時の番人ウサギから聞かされていたけど、実際に世界時計の中を確認出来なかった。  次に、重要な道具であるゼンマイが、常に自警団によって警備されていたということ。  これはもう、警備が交代する僅かな間にゼンマイを盗み出すしかなかった。  そして、その時間が一番の問題だったの。  自警団の交代時間が、午前零時になる数十秒前だったってこと。  いいえ、正確に言うなら十秒しかなかったのよ。  少し前にゼンマイは一般公開されているって言ったでしょう?  つまり、ゼンマイは世界時計の一番下の階にあるってわけ。  さてさて、たった十秒の間に私はゼンマイを盗み出し、数十メートル上にある動力部に辿り着くことが出来たのでしょうか?  ふぅ、随分と前置きが長くなっちゃったね。  だけど、決行の日は唐突に訪れたの。  もう、時期にその日が終わろうとした頃、時の番人ウサギから連絡を受けた私は宿から飛び出した。  時計の音だけが木霊している夜の街を私は駆け抜けて、呼吸を整える余裕もなく作戦が始まったわ。  その時には、すでに世界時計が狂う数分前まで迫っていたから。  世界時計の内部に侵入した私は、まずその奇妙な音に驚いた。    徐々に緊張感を含ませて、没入感を煽る感じで。  ブオン、ブオンって初めて聞く音だったけど、それは世界時計の振り子が出す風切り音だった。  ううん、アレは風が生まれる音だったと思う。  それ以外の音はほとんどしない。  話し声も足音も聞こえない。  風が生まれ、空気が震える風切りの音だけ。  世界時計の内部は数多くの歯車がむき出しになっていて、それぞれが同じ速度で回っている。  実際に構造を確かめて、時の番人ウサギに教えられた内部と照らし合わせながら、私はゼンマイが展示されている場所に向かう。  慎重に、誰とも出会わないように。  手に汗が浮かんで、無意識に呼吸が短くなる。  呼吸をしている意識が薄くなる。  意識をすべて目に向けて、廊下を進んでいく。  一定に聞こえ続ける風切り音に、私の精神は落ち着かなくなる。  目しか頼れない状況に、段々と緊張感が増していく。  でも、時間はほとんどない。  進むしかない。止まっている時間も惜しい。  でも、慎重に進まなくちゃいけない。  そうして、私は展示室の前までやってきた。  監視が二人居る。まだ、交代のタイミングじゃない。  小さく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。  これから先はさらに時間との勝負になるから。  時の番人ウサギは、この時すでに管理室で世界時計を止める機会を待っていた。  時間が来れば、私が目的の場所に辿り着けなくても世界時計は停止する。  時が止まる。  一秒一秒、時が進むたびに緊張感が増していく。  集中力が高まっていく。  そして、その時がやってきた。  監視が離れた瞬間、私は飛び出す。  その瞬間から十カウントが始まった。  私が飛び出したタイミングが僅かに早く、自警団の一人に見つかってしまう。  だけど、逃げている余裕はない。  ゼンマイを手に入れた私は、歯車に妨害される廊下を進み、階段を駆け上がる。  階段は吹き抜けになっていて、巨大な振り子を中心に螺旋のように伸びている。  背後からは自警団の怒鳴り声が聞こえ、風切り音に負けない複数の足音が響く。  時より上に舞い上げられる風に足を取られながらも、階段を駆け上がる。  振り切らなければ。  階段を駆け上がる多くの足音を聞きながら、私は思考を巡らせる。  時間はすでに後五秒を切っていた。  焦る気持ちと冷静さを残している頭。  ここままじゃ、時間が足りない。  自警団には捕まらなくても、ゼンマイを巻く時間がない。  にわかに生まれる諦めの感情。  だけど次の瞬間、風が生まれた。  私は階段の手すりを足場にして、振り子に向かって飛び込んだ。  巻き起こる風は、振り子によって生まれた上昇する風。  両手を拡げ、風に乗る。  反転し、振り子を足場にして、私は動力部に向かって思い切り踏み込んだ!  その次の瞬間、私は、世界時計が止めることの意味を知ったの。  景色は変わらない。ただ、瞬きにも満たない間に時間だけがズレた。  私は目を見開いて、無我夢中で差し込んだゼンマイを回した。  時が、動き出す。  正常に回り始める。  私は安堵の息を漏らして、失われた酸素を補給する。  その時にはもう、逃げる必要がなくなっていたから。  だって、自警団の誰もが気絶してしまっていたんだから。  このあと、ゼンマイを返した私は、一度だけ街の外で時の番人ウサギと話をしたの。  ことの顛末を確認し合う為に、ね。  世界時計はあの日、確かに時間がズレた。  私は認識することが出来なかったけど、時の番人ウサギがその時間を見ていた。  世界時計を止めた瞬間から、存在するすべてが停止しているみたいだって、時の番人ウサギは言った。  でも、実際のところは少しだけ違う。  停止し、ズレていた間、私たちは死んでいたの。  厳密に言えば、私たちはその間、呼吸をしていなかったの。  これが自警団の人たちが気絶していた理由。  走った直後に一分間も息を止めていたら、酸欠になっちゃうでしょ?  私はほら、冒険者だし? 普段から鍛えてるし?  というのは嘘で、私は時間が止まることを覚悟していたから。  あの日、あの時、時の番人ウサギ以外、すべての生命が死に、そして、生き返った。  これが世界時計に隠された秘密って訳。  私と時の番人ウサギしか知らない世界の秘密。  だから、誰にも言っちゃダメだからね?  特別に、キミだけに教えてあげたんだから。  これは、私からの信頼の証でもあるってことで。  だけど、息が詰まる話だったから、ちょっと疲れちゃったかもしれないね。  心臓の音も少し早くなってる。  もしかして、お姉さんのことを見て意識しちゃった?  好きになっちゃった?  なんて。  軽く深呼吸をして、息を整えて。  キミは、私からこの世界の話を聞いて、少しずつこの世界を受け入れ始めているの。  始めほど、恐怖心は無くなっているでしょう?  緊張も解けていてきている。  きっと、もう少しで元の世界に帰れるよ。  大丈夫。私がちゃんと送り返してあげるから。 【小話c・気まぐれ猫と雨の街】  さっきも言ったけど、キミはこの世界を受け入れ始めているの。  馴染んできているとも言えるかな。  恐怖心や緊張も無くなってきている。  私の話も、素直に聞ける心になっている。  だから、次のお話でキミは元の世界に帰ることが出来るよ。  ――寂しい?  もし、キミがそう思ったとしたら、私はとっても嬉しい。  けど、キミともうすぐお別れかと思うと、お姉さんもちょっと寂しいかな。  私は、キミのことを気に入っているから。  キミは、私のことをどう思っているのかな。  少しくらい好意を抱いてくれているなら、私は嬉しいけど。  なんて。  最後に話すお話は、私が宿を始めようと思ったきっかけになった話。  私が冒険者だったって話は何度もしているよね?  では、冒険、旅をする為に必要なものはなんでしょう?  ズバリ、路銀です!  路銀がなければ、美味しいご飯も、温かいお布団も手に入りません。  その為に、冒険者は依頼者から依頼を受け、報酬を頂きます。  でも、私はその依頼に失敗して大怪我を負ってしまったのです。  魔獣退治でした。  キミの世界のライオンを三倍くらい大きくして、十倍以上凶暴にした魔獣でした。  眼光鋭く、私が左目を潰す瞬間まで睨んできていました。  とにかく、魔獣を倒せず、大怪我も負ってしまった私は、治療の為にとある街を訪れたの。  その街はずっと雨が降り続いていて、時間がゆっくりと進んでいるような静かなところ。  雨の音が心地よく響いている、そういう街。  でも、私が雨の街を選んだ理由は、ゆっくりしたかったからじゃない。  雨の街は温泉地としても有名で、その湯には傷を癒す効果があったから。  だから、私たち冒険者にとっては楽園と呼ばれているの。  私は一刻も早く傷を癒して、魔獣討伐に再挑戦したかった。  魔獣も深手を負っていたし、横取りなんてされたら堪らないでしょう?  何よりも依頼料が欲しかった……ッ!  だけど、私の傷は思ってたよりも深くて、しばらく雨の街に滞在することになっちゃったの。  そんなくすぶる思いを抱えていた時、私は年老いた一匹のアルムに出会ったの。  アルムっていうのはね。  キミの世界の猫に似ているかな。  短い白い毛並みで、青い瞳、ほっそりとした肢体で、雨の街にだけ住んでいる動物。  白い毛が水を弾くから、私たちが雨を避けて屋根の下を歩く中、アルムだけは堂々と道の真ん中を歩くことが出来る。  その姿は凛々しくて、けっして人に馴れることがないと言われているわ。  そんなアルムになぜか気に入られたみたいで、治療の間、私はその年老いたアルムと一緒に過ごすことになったの。  一緒にとはいっても、あの子は一度だって触らせてはくれなかったけどね。  アルマは年を取ると、水を弾く力が減ってしまうの。  それでもあの子は道の真ん中を歩いていて、僅かに濡れた毛並みが神秘さを感じさせてた。  それでも、濡れるのは嫌みたいで、私が借りていた宿によく雨宿りに来ていたの。  宿に居る間はいつも眠っていて、食事時になると目を覚まして私に餌をねだるの。  その仕草がまたふてぶてしくて、餌を貰えるのが当然って目で私を見るのよ?  雨の街は、アルマの毛の色みたいに真っ白なレンガ造りの街で、いつも雨に濡れているから少しだけくすんだ色をしているの。  だから、アルマの毛が特別真っ白に見える。  でも、雨が降り続いているといっても、この街はどんよりした雲が空を覆っているわけじゃない。  薄日の差す、パステルイエローの幻想的な雲が広がっていて、雲間から差す光は、まるで一枚の絵画みたいに綺麗なの。  そういう雰囲気も含めて、この街は時間から解放されたような気持ちにさせる。  アルマの優雅さも、図々しさも、その一部。  怪我を癒すと同時に、心まで癒してしまう、そういう街。  私の傷が癒え、魔獣討伐も諦めかけたある日。  例の魔獣が、まだ討伐されていない噂を聞いたの。  その噂を聞いて、私は迷ったわ。  傷を治す為に路銀のほとんどを使ってしまっていたから。  完治こそしていないけれど、魔獣は私以上に傷を負っている。  次こそ、勝てるかもしれない。  けれど、次は命を落としてしまうかもしれない。  迷って、迷って、結局私は魔獣を討伐することに決めたの。  旅立つ日の朝、私が宿を出ると、悠然とあのアルムが私のことを見つめていた。  私のことを見つめるとアルマは歩き出して、途中で足を止めると首だけを私に向けた。  私が気になって追いかけると、アルマも歩き始める。  私が足を止めると、アルマも止まって私のことを見る。  その姿はまるで、私のことをどこかに連れて行こうとしているみたいに見えた。  誘われるように私は大通りから小道に入り、どんどん人気のないほうに進んでいく。  時よりアルムが振り返り、私の姿を見つけると別の路地に入ってしまう。  見失わないように追いかけると、いつしか見たこともない場所に来ていて。  追いかけながら、私は嫌な胸騒ぎを覚えたの。  もう元の場所には戻れないような、でも、今ここでアルマを見失ったら、二度と会えないような。  そんなことを考えていた矢先、アルムが突然路地の奥の、奥のほうに走って行っちゃったの。  慌てて追いかけたけど、私はアルムのことを見失ってしまったわ。  路地はとても入り組んでいて、アルムみたいに小さな生き物を見つけるのは難しかった。  でも、そんな時に鳴き声が聞こえたの。  アルムの鳴き声。  変よね。これまで私は、一度もアルムの鳴き声を聞いたことがなかったのに。  私はその鳴き声を頼りに路地を進むと、とある長い一本の路地でアルムを見つけた。  その路地はとても、とても長くて、アルムはどんどん先に進んでしまう。  追いかけても追いつかなくて、アルムは先に路地を抜けてしまうの。  何だか、それが物凄く寂しく思えて、胸が締め付けられるみたいで。  私は懸命に走って路地を抜けた。  その瞬間、あまりにも強い光に襲われて私は目を瞑った。  そして、路地を抜けた先で目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていたの。  見渡す限りの草原、黄金色に広がる、金と白だけに染まった世界が広がっていた。  そこに雨は降っていなくて、心地よい温かな風が吹いていた。  さぁーっと乾いた草木の揺れる音がして、私の髪も風に揺られてなびいてた。  その光景はあまりにも神秘的で、幻想的で、とてもこの世のモノとは思えなかった。  見上げたくても、光が強過ぎで空を見つめることも出来ない。  そんな草原を歩いていると、不思議と気持ちがやすらいで、今にも眠ってしまいそうなほど穏やかな気分だった。  でも、そこにアルマの姿はなくて、代わりに大きな石碑を見つけたの。  それが何だったのか、今でも正確には分からない。  けど、アルマのことで一つ思い出したの。  アルマは死ぬ時、その姿を誰にも見せない。  キミの世界の猫にも、そういう話があるみたいね。  だから私は、その石碑を見て思ったの。  これはアルマのお墓なんじゃないかって。  そう思ったらいろいろと納得しちゃって、気づいたらすっと涙が零れてた。  悲しくなってなかったのにね。  どうして泣いたのか、今でもよくわからない。  けどその零れた涙が、これまで抱えていた重荷を流してくれたみたいに、体が軽くなったの。  そんな時、石碑の奥からアルムの鳴き声がして、一陣の風が巻き上がった。  私は目を瞑って、次に目を開けるとそこは宿の前だったの。  アルムの姿はどこにもなくて、時間を確かめると一分も経っていなかった。  私はしばらく動けなくて、呆然と雨が降る空を見上げてた。  まるで夢でも見ていたみたいで、現実感がないのに、不思議と夢だとは思わなかった。  アルムが見せてくれた奇跡。  うーん、あの子の場合、そんなにお洒落じゃないかな。  ほんの気まぐれ、そう、アルムの気まぐれだったのよ。 【エピローグ】  どう――ふふ、もう聞くまでもないかもね。  とっても穏やかな顔をしているもの。  キミは十分にこの世界に馴染んで、受け入れることが出来ている。  このまま眠りに落ちるだけで、キミは元の世界に帰ることが出来る状態。  よかったね。  それじゃ、キミが眠るまでの間、私が子守歌代わりに話をしてあげる。  キミは目を瞑って、返事をする必要もないからただ聞いていて。  そのまま、眠っちゃってもいいくらい気持ちで聞いて。  眠れたのなら、キミは元の世界に帰れるんだから。  無理に起きていようとする必要はないんだよ?  今日は三つのお話をしたよね?  呪術師と碧蔓塔のお話、世界時計の秘密のお話、気まぐれアルムのお話。  キミはどのお話が好きだったかな?  どこまでも高い塔を登る話は、ダンジョンを攻略しているような気持ちになったかな?  ああ、でも、モンスターも宝箱も登場しなかったから、退屈だったかもね。  だけど、螺旋階段の中で見上げた星空は、本当に綺麗で一時も目を離すことが出来なかった。  目を奪われて、心も満たされて、幸せだった。  結果的には呪術師に騙されていたわけだけど、それでも、登ってよかったと思ってる。  ぐるぐる、ふわふわ、夢の世界を歩いているみたいで、時間を忘れてしまうような一時だったから。  時間といえば、世界時計の秘密は誰も言っちゃダメだからね?  約束よ。ふふ。  話したとしても、誰も信じてくれないと思うけど。  でも、ちゃんと心の奥に仕舞っていてね。  私とキミだけの、秘密の約束なんだから。  破られたら、お姉さんは寂しいかな。  キミはそんなことをしないって信じているけどね。  ふふ、呼吸も落ち着いてるね。  いいんだよ、私の話は聞き流して、そのまま眠っちゃっても。  眠って起きた時、キミは今日のことを夢だと思うかもしれない。  私と出会ったことも、私から聞いた話も全部、夢の中の出来事だったと思うの。  キミにとって、その夢が幸せなものだったと、元気になれそうなものだったら、私はとっても嬉しいよ。  キミの力になることが出来たんだって、幸せな気持ちになれるから。  もう、本当に眠っちゃいそうだね。  意識が落ち始めてるよ。  すぅーって、体の力が抜けて、意識が沈んでいっている。  もう少しだね。  雨の街の話、年老いたアルムのお話は、ちょっと切なくなっちゃったかな。  楽しい話じゃなかったと思うし。  でも、キミには何となく話したいって思っちゃったんだよね。  どうしてかな?  すぐにキミともお別れしちゃうから、思い出しちゃったのかもね。  アルムとお別れした後も、しばらく私はこの世界のいろいろな場所を巡って歩いた。  その国々には様々な文化があって、風習があって、どれもが私には新鮮で楽しかった。  けど、ふとした瞬間に思ったの。 ああ、ここでも私は冒険者なんだな≠チて。  いろんな人や動物と出会って、同じ数だけ別れを経験していく間に、胸の奥のほうにぽっかりと穴が空いていく気がしたの。  それに気づいたきっかけは、あの気まぐれなアルムと過ごした時間だと思う。  言葉が通じなくても、一緒に居るだけでいい。  たったそれだけで、私はこの場所に居てもいいんだって思えたから。  だから、今度は私がいろんな人たちの居場所でありたいと思って。  この宿を始めることにしたの。  辛いことも、嫌なことも、どうしようもないことも全部、ここに居る間は忘れてしまえる場所にしようって。  だって、一緒に過ごすのなら楽しいほうがいいでしょ?  キミがここにやってきた時、ホントのことを言うとね、すごく迷ったの。  キミはこの世界の住人じゃないし、キミが何をしに来たのかも分からなかったから。  でも、震えているキミを放っておくことも出来なかった。  だけど、どうすればキミの恐怖を取り除くことが出来るのかも分からなかったから。  いろいろ考えて、今こうしてキミが――。  もう、眠っちゃったかな。  キミの体が、薄らと消え始めてるよ?  そのまま、まどろむ意識の中で聞き流してね。  キミが、私のことを信頼してくれるようになって、本当に嬉しかったんだよ。  どうしてかな、涙が出るくらいに嬉しかったの。  安心したからかな。それとも、あの子のことを思い出したからかな。  それとも――。  ううん、何でもないの。  ゆっくりと、眠りなさい。  ふわふわ、ふわふわ、揺れるように、ゆらゆら、ゆらゆら、穏やかな波に揺られて、沈んでいくように。  体の力が抜けて、意識も落ちていくの。  眠りなさい。  眠って目が覚めた時、キミは今日の出来事を夢だと思うかもしれない。  でも、それでいいの。  この世界のことは、キミの夢の物語として刻まれる。  それがキミにとって幸せで、嬉しくて、心地のいい夢だったら。  私はそれだけで嬉しい。  力を抜いて、そうすると意識がまどろんでいくから。  このまま元の世界に帰りましょう。  キミはこのまま透明になって、この世界から元の世界に帰る。  すぅーっと消えていって、元の世界に戻ることが出来るの。  精神が、肉体に戻っていくの。  さようなら、会えて嬉しかった。  お別れの言葉は寂しいから、これから眠るキミにいつかまた会えるように、この言葉でお別れしましょう。  ――おやすみなさい。